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足るを知りて慈しみを知る

 「」という言葉を語るとき、それが包含(ほうがん)するものは実に多岐に渡る傾向にあるから、個人的には用いるのが難しい言葉のひとつだ。自分としては、「無償の愛」とされる「アガペー」の意で捉えることが多いけれど、それが一般的であるとは思わない。なので、「愛」という言葉を用いる代わりに「慈しみ(いつくしみ)」という表現を使うのが好きだ。

 さて、仏教の中で最古の聖典と称される『スッタニパータW』をトイレの中で読んでいた。宗教学者の中村 元(なかむら はじめ)氏訳による『ブッダのことば』(岩波文庫)であるが、最初の章である「蛇の章」に『八、慈しみ』という節がある。この節は10の詩句からなるが、目に留まった初めの8句を紹介しておく。

第一 蛇の章 八、慈しみ

  1. 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力があり、直(なお)く、正しく、ことばやさしく、柔和(にゅうわ)で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
  2. 足ることを知り、質素に暮し、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪(むさぼ)ることがない。
  3. 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。
  4. いかなる生物生類(いきものしょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛(きょうごう)なものでも悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、または粗大なものでも、
  5. 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切も生きとし生けるものは、幸せであれ。
  6. 何びとも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
  7. あたかも、母が己(おの)が独り子を身命を賭(と)して護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。
  8. また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に下にまた横に、障害なく敵意なき(慈しみを行うべし)。
引用元: 岩波文庫 中村 元 訳『ブッダのことば スッタニパータLink

 世の中の人々が皆これを実践できるなら、この世はさぞかしまばゆいものであろうけれど、自分も含めてこのような境地に達するのははなはだ困難といわざるを得ない。それでも、それを目指して生きていくのは良いことだと信じる。

 この詩句を読んで浮かんだ思いは、「大人になるとは己(おのれ)を知ること」だった。己を知って初めて、「あぁ、自分も大人になったなぁ」と実感できる気がする。そういう意味では、自分はまだまだ子供なのかもしれない。己を知ることができれば、自ずと「足るを知る」ことができるのかなぁと。

 中村 元氏によるこの訳本が素晴らしいのは、比較的平易に訳された詩句だけでなく、膨大な注釈が付いていることだ。実に本書の半分は注釈で占められている。この節の解説では、「知足=足るを知る」という老子の言葉も引き合いに出している。

勝人者力 (人に勝つ者は力有り)
自勝者強 (自ら勝つ者は強)

知足者富 (足るを知る者は富む)
強行者志有(強を行う者は志有り)

引用元: 老子・第三十三章Link

 老子とブッダは、共に紀元前5世紀頃の人で、西方に消えた老子がインドで釈迦となり、仏教を興したという説(いわゆる『老子化胡説』ろうしかこせつ(けこせつ)、ほぼ創作であろう)もあるぐらいで、確かに思想的に似通った点もあるようだ。老子のは、一見逆説的な言い回しになっているので解釈がやや難しい気がする。

 個人的には、「足るを知る」で想い起こされるのは、使徒パウロの次の言葉。

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

引用元: 『フィリピの信徒への手紙』4章11-13節

 ローマの獄中から、フィリピの教会へ宛てた感謝の手紙。ここでは貧しくても我慢せよと言っているのではない。あらゆる境遇にあっても、足りるを知るということが大切ですよ、と述べている。自分の置かれた境遇をよく理解し、自分を知り、自分を慈しむ、そうすることで他人を慈しむことができるのかもしれない。

 

― by まーちん @ 12:59 pm commentComment [0] pingTrackBack [0]

井の中の蛙大海を知らずの続き?

 よく知られた諺(ことわざ)「井の中の蛙(かわず)大海を知らずLink 」とは「胡蝶の夢」で有名な荘子W(そうし)の著書『荘子(そうじ)』秋水篇の中のエピソードによる。

北海若(ほっかいじゃく)曰く、井蛙(せいあ)には以(も)て海を語るべからざるは、虚に拘(かかわ)ればなり。夏虫(かちゅう)には以て冰(こおり)を語るべからざるは、時に篤(あつ)ければなり。曲士(きょくし)には以て道を語るべからざるは、教えに束(つか)らるればなり。

意訳: 北海の神である若(じゃく)が言った。
「井戸の中の蛙には、大海は語れない。自分の居場所にこだわっているから。また、夏の虫に氷は語れない。夏の季節しか考えないから。大局を見ないものは真理を語れない。卑俗な教理に捉われているから。」

出典: 荘子 外篇・秋水第十七 第一章

 乱暴に言えば「悠久の自然や時間に比べれば、ちっぽけな人間の知識なんて当てにならない」ってとこだろう。ところで、秋水篇は7章から成っているようで、この諺「井の中の蛙大海を知らず」の出典としては、この第一章ではなくて第4章の方Link だという説もある。確かに後者の方がそれっぽい。どちらにせよ、秋水篇の中であることには変わりない。

 で、ここからが本題だけど、別件でたまたま「井の中の蛙大海を知らず。されど空の高さと水の深さを知る。」という言い回しを見てびっくり。えっ、そんなのあったっけなぁ。調べてみると、後半は色々バリエーションがあるようだ。「されど空の深さを知る」「されど天の広さを知る」「されど地の深さを知る」「されど空の青さを知る」などなど。どうも日本で後世の人が後付けしたらしい。

 じゃ、誰がこんな洒落たことを最初にしたのだろう? 適当に調べて見たが、どうもはっきりしない。使われているものとしては、小林よしのり氏の漫画『ゴーマニズム宣言』4巻第85章に「井の中の蛙大海を知らず。されど空の深さを知る。」とあるらしいし、2004年のNHK大河ドラマ「新選組!」(三谷幸喜 脚本)での近藤勇に台詞に「井の中の蛙大海を知らず。されど空の高さを知る。」というのがあるらしい。最も古そうなものとしては、陶芸家河井寛次郎W(かわいかんじろう 1890-1966)氏が、自分の作品を批判された際に「井の中の蛙大海を知らず。されど天を知る」と言ったというエピソードがあるLink ようだ。

 個人的には、江戸時代あたりに川柳の感覚でどこかの風流人がとってつけたんじゃないかなぁと妄想するけど、こういうことを詮索するようでは荘子に怒られるかな。

 余談だけど、「井の中の蛙 千代大海を知らず」というのもあるらしい。うむ、引退した力士だから、蛙が知らないのも無理はないか。。

 


― by まーちん @ 05:23 pm commentComment [2] pingTrackBack [0]

今を生きる

 警察庁の発表Link (PDFファイル)によると2008年の自殺者数は3万2249人で、1998年以来11年連続で年間自殺者数が3万人を超えたとのこと。単純に計算しても、毎日90人前後の方々が自ら命を絶つという選択をしていることになる。

 世界での位置Link (自殺率の国際比較)を見てみると、ロシアを含めた主要先進国(G8)の中では、ロシアに次いで第2位であり、旧社会主義国なども含めた国々でみると世界第8位だ。アフリカの国々ではデータがないことが多く、正確に全世界からの統計データではない点は留意すべきである。が、それでも日本より上位の国々は、リトアニア、ベラルーシ、ロシア、スロベニア、カザフスタン、ラトビア、ハンガリーと、いわゆる、体制が不安定である(であった)旧社会主義国である。これに次ぐ第8位というのは、やはり刮目すべき点ではあるが、これには日本の風土なり仏教や禅に絡んだ歴史的背景も無視できないだろうから、一概に、先進国で自殺者が一番多いのは社会全体が病んでいるからだ、といった考察の解釈には慎重でなければなない。これらのことに関する考察は、上記リンクや、同じサイトのメンタルヘルスの国際比較Link によく纏められている。

 若かりし学生の頃は、「自殺は絶対に許せない。」し、「自殺なんて弱者の手段だ。」と思っていた。理由は、単純に、周りに迷惑をかけるし、周りを悲しませるからだ。小さい頃から、自殺は案外身近なものだった。小学校に入る前だったか、ラジコンのヘリコプタや沢山のプラモデルや大小のモーターを見せてくれて、自分の理科系探求心を十二分に刺激させてくれた、隣家の眼鏡をかけたおにいちゃんは自殺したし、小学校に入って、ずっと悪ガキ仲間だった友人のお父さんも自殺したし、近くに引っ越してきた近所の人も自殺した。あの小さなコミュニティで、随分と人は自殺するもんだとは子供心に感じていた。こういうのが影響したのかは分からないけれど、とにかく「自殺は嫌い」だった。なので、自殺が絡む文学作品や映画は決して評価しなかった(認めなかった)し、そもそもそういう情報が予め分かっていれば、最初から読みもしなかった(この影響で、今でも読んでいない文学作品が山ほどある)。

 大学生の頃、近くのTSUTAYAで、「今を生きる」をいう映画を借りた。原題は ”Dead Poets Society(死せる詩人の会)” だ。1989年のアメリカ映画。この映画でも、途中で自殺するシーンが出てきて、ひとりで見ていてがっかりした覚えがある。なんだよ、自殺かよっ、て。そのせいか、内容は殆ど覚えていない。でも、その映画に出てくる ”Seize the Day(今を生きろ)” という台詞だけは好きだった。

 働き出して、多くのご臨終に立ち会ってきた。担当の患者さんだけでなく、時には、別の病院で宿直していて、あまり面識のない患者さんの死を看取ったことも多々あった。だが、どこで死を看取ろうと、患者さんに接する態度は変わらない。いつも「お疲れ様でした。」と心の中で患者さんに話しかけて送り出していた。病院で迎える死だけではない。時には、検死依頼というのが警察署から来て、死亡状況を確認して、死体検案書を作成したこともそれなりにあった。色々な死に方があった。病死だけでなく転落死や火事などによる焼死。そんな中で、自殺という死に方にも身近に接してきた。首吊り、車内でのガスによる自殺、農薬による自殺。首吊り自殺だけでも、何度か現場に行って来た。警察の方々がせわしく現場写真を撮ったりインタビューをする中、周りで悲嘆にくれるご家族や、動揺を隠せないご家族、疲れ切ったご家族。そんな中で、ひとりひっそりと佇む自殺者。身内が全くいない方もいた。こういうのを体験していく内に、自分の中での、自殺に対する見方が変わっていったように思える。

 今は、どうだろう。「自殺は良くない。」と簡単に言えない自分がいる。そもそも自殺を特別な死とみなすというのが正しいのかどうか。この辺りは、この場で語り尽くせるものでもないし、どれが正しいという類のものでもないだろう。だからといって、自分は、自殺する気は更々ないのであるが。

 随分と前置きが長くなった。さて、本題の「今を生きる」に入ろう。この「今を生きる」という言葉、"Seize the Day" の邦訳であることは先ほど述べた。「その日を掴め」というのが直訳になる。英語では "Seize the Day" だけれども、これにもオリジナルがあって、それはラテン語だ。ラテン語だと "Carpe diem"。WikipediaLink によれば、carpeは、英語だとpickとかpluckに相当し「(果物や花などを)掴み取る」の意。このWikipediaにある解説では、「人生は短く、時間は矢のように過ぎていくんだし、明日死ぬかも知れない。だから、食べて飲んで、今の時間を大いに楽しもう」ということらしい。では、Carpe diemの出典はというと、紀元前、古代ローマ時代の詩人ホラティウスの叙情詩だ。ラテン語はさっぱりなので、日本語訳ないかなぁと探したらありました。ラテン語のメーリングリストを主宰しておられる山下太郎氏Link のサイトに試訳があったので転載しておきます。素晴らしい訳ありがとうございます。

神々がどんな死を僕や君にお与えになるのか、レウコノエ、そんなことを尋ねてはいけない。
それを知ることは、神の道に背くことだから。
君はまた、バビュロンの数占いにも手を出してはいけない。
死がどのようなものであれ、それを進んで受け入れる方がどんなにかいいだろう。
仮にユピテル様が、これから僕らに何度も冬を迎えさせてくれるにせよ、
或いは逆に、立ちはだかる岩によってテュッレニア海を疲弊させている今年の冬が最後の冬になるにせよ。
だから君には賢明であってほしい。酒を漉(こ)し、短い人生の中で遠大な希望を抱くことは慎もう。
なぜなら、僕らがこんなおしゃべりをしている間にも、意地悪な「時」は足早に逃げていってしまうのだから。
今日一日の花を摘みとることだ。
明日が来るなんて、ちっともあてにはできないのだから。

引用元: ラテン語ファンサイト - カルペ・ディエムのソース-ラテン語WikiLink

 未来のことはおろか明日のことでさえ何が起きるか分からない。全く持ってその通り。だからこそ、今この刹那せつなを(楽しみ)生きるのが良い。いや、その通り、だとは思うけれど、これって実践するのはなかなか大変だ。

 ベトナム生まれの著名な僧侶であり詩人でもあるティク・ナット・ハンLink の「The Miracle Of MindfulnessG(マインドフルネスの奇跡)」という本に、皿の洗い方やお茶の飲み方が書かれている。大雑把に試訳してみる。

皿洗いをしているときは、皿洗いだけに心を留めるべきです。つまり、洗っている最中は完全に「私が洗っている」と言う事実に気付いているべきです。これは一見するとばかげたことのように思えるかもしれません。・・・でも、正にこれがポイントなのです。自分が台所に立って、食器を洗っているという驚くべき事実。

・・・お皿を洗っている最中に、後で淹れるお茶のことばかり考えて、皿洗いを煩わしく感じているとしたら、それは「皿を洗うために皿洗いをしている」ということにはなりません。実のところ、その間は本当は「生きてはいない」のです。そういう状態では命の奇跡を実感することは出来ません。そういう状態ではお茶ですら飲むことも出来ないでしょう。なぜなら、お茶を飲んでる間は、今度は、また別のことに心を捕らわれているでしょうから、自分が手に持った一杯のお茶にすら気付かないのです・・・

引用元: ティク・ナット・ハン ― The Miracle Of MindfulnessLink

 皿洗いが苦手な自分には浸みる言葉だ。でも訳が下手だし、このリンク元の文章自体が、この本の要約みたいなので、ちょっと堅い。おそらく同じ出典なんだろうけど、以前紹介した精神科医のワイス博士の「Only Love Is Real(邦訳: ソウルメイト)」にもっと分かりやすいのがあるので、そのまま抜粋しておく。

・・・お茶を楽しむためには、人は完全に、今という時に目覚めていなければならない。今という瞬間を意識している時にのみ、手は茶わんの快い温かさを感じることが出来る。今という瞬間のみに、香りを楽しみ、甘さを味わい、繊細さを感じ取ることが出来る。過去のことを思い煩っていたり、将来のことを心配していたりすると、一杯のお茶を楽しむという体験を失してしまうだろう。茶わんを見おろすと、もうお茶はなくなっているのだ。

 人生もまったくこれと同じである。今という時に完全に心を向けていないならば、まわりを見まわしてみると、もうそれはどこかへ行ってしまっているのだ。人生の感触、香り、繊細さ、美などをすべて見過ごしてしまうだろう。

 過去はすでに終っている。そこから学ぶことを学び、手放せばいいのだ。未来はまだここにない。未来に対する計画を立てるのはよい。でもそのことを心配して時間を無駄にしてはいけない。心配は必要ないことなのだ。すでに起こってしまったことを気に病むのをやめ、起こらないかもしれないことを心配するのをやめた時、あなたは今という瞬間にいることができるのだ。その時あなたは人生の喜びを十分に体験し始めるだろう。

引用元: ソウルメイト 魂の伴侶ー山川紘矢・亜希子訳

 うむ、やっぱりプロの訳者は違うな。この文章を読んで、イエスの言葉を思い出した方もいるだろう。

 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことを思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるからである。

・・・あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことを思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなた方に言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 ・・・だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

マタイによる福音書6章25-34節より一部抜粋

 この最後の2行は特に好きな言葉だ。何ともほっとさせてくれる言葉ではないか。

 「今」という時を実感するのは難しいことかもしれないし、すごく簡単なことかもしれない。この歳になっても活字を読むのは苦手なんだけれど、小学生の頃、自分が活字のある本を全く読まないもんだから(写真の本ばかり見ていた)、図書館の先生が心配してローラ・インガルス・ワイルダーの「大きな森の小さな家」をすすめてくれた。この本は、自分の思想にも影響を与えた非常に大きな出会いであった。その中でのことだったか、あるいは同小さな家シリーズの「大草原の小さな家」(これはドラマのDVD版も出たんだっけ?)でのエピソードだったか、忘れてしまったけれど、主人公のまだ幼いローラが、お父さんのバイオリンの奏でる音や暖炉のぱちぱち鳴る音に耳を傾けながら、「これが『今』なのね。」と幸せを実感する場面があって、その描写に何とも言えない説得力を感じたのを思い出す。

 一杯の熱いお茶をすすりながら、湯吞み越しにその熱さを感じ、湯気越しにその香りを感じ、今このひとときを実感する、そんな余裕が欲しいもんだ。

 


― by まーちん @ 06:45 pm commentComment [6] pingTrackBack [0]

夢十夜 ~ 第1夜

第一夜

こんな夢をみた。

私は、ゆっくりとゆっくりと降下していった
およそ目に映るすべてのものが静寂に包まれている
青白い月明かりが、私の身体(からだ)を淡く染める
砂漠を渡るそよ風が頬をやさしく撫でる
あぁ私は、かつて味わったことがある、そう遙か遙か遠い昔
涙が頬を伝い
はるか足元のオアシスへと滴り落ちる

私は、そっとオアシスの傍に降り立った
時折吹く風がカサカサと椰子の木々を鳴らし
水面(みなも)に小さなさざ波を立てる
漠寂(ばくじゃく)とした空気に魚達の寝息を聞く

私は、ひんやりとした砂の上に身を置いた
伸ばせば届きそうな星達
彼らは、音も立てず、瞬くことなくそこにいた
ふと、乾いた月の光が、私の瞳をのぞき込む
あぁ、月になら、私の胸の内を悟られても良い
お前は、何億年も前から私を見ていたのだから

・・・第二夜に続く

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― by まーちん @ 05:53 pm commentComment [0] pingTrackBack [0]

メルロ・ポンティとか

 「何かについて考える」という動作を考えてみよう。我々は、言葉を媒体にして「何かについて考える」という動作を遂行している。例えば「愛」というものについて考えるとき、果たして言葉なしで愛という概念に対して思いを巡らすことが出来るだろうか?「愛とは・・・」と問いかけた時点で、言葉に依存している。

 思考と言葉の関係を論じるには、おそらく厳格・緻密な定義が必要と思われるが、それはひとまず置いておこう。直感的には、我々が言葉に接した時点で、思考という行為は、言葉の呪縛から逃れることはできないように思える。ここで当然のように沸き起こる疑問、そう、では言葉に接する以前の状態では、思考という行為は遂行不能なことだろうか? あるいは、言葉に接する以前の状態では、思考という行為は存在し得ないのだろうか。思考とは、言葉が作り出す、真に従属的なものなのだろうか?

 言葉に接する以前の状態として、容易に思いつくのは生まれたての赤ちゃん。オギャーオギャーと生まれてきた赤ちゃんが言葉を知るわけもなく、それこそ本能といわれるものに従って、動物的に泣きじゃくるであろう。言葉を知らないから「今の気分はどうですか?」とインタビューするわけにもいかない。この時点では、明らかに思考という行為はしていないであろう。だが、客観的に想像することは出来る。チアノーゼが来てるから、酸素が足りてないぞ、きっと「息苦しい」と思っているだろう等々。我々が「息苦しい」と感じる時、言葉を知っている我々は、頭の中で「息苦しい」という言葉に翻訳しているわけだ。だが、言葉を知らない赤ちゃんは、その翻訳という作業が欠けている。

 翻訳という作業。それには、翻訳する元になるものがある。何を翻訳しているのか。この場合は、体内の組織中の酸素が足りないことによる生態防御反応(の知覚)。様々な伝達物質が分泌され、生命防御に向けたシグナルが全身的に発せられるであろう。脳内でも、アドレナリンなど様々な神経伝達物質が放出されるであろう。

 「息苦しい」状態にある際の、一個人の中で起きている反応は、我々言葉を知っている大人と赤ちゃんとでは相違ないであろう。それを言葉を用いて翻訳するかどうか。そこに差が表れる。

 「息苦しい」と思った時、それは思考であろうか? そのように思えるし、そうでないようにも思える。

思考とは、言葉に対して、真に従属的なものである。

と言ってしまって良さそうだ。あるいはこう言い換えても良いかもしれない。

思考は言葉の奴隷である

 なんてことを、大学の1,2年の教養の頃に考えていて、それを考えるヒントになるかも知れないなぁと思って、単位のひとつとして「メルロ・ポンティの知覚と現象学」みたいな講座があったので、それを受講したのはいい思い出だ。大学1-2年の教養時代。それはある意味、自分にとって理想郷とも言える時代のひとつであったのは間違いない。面白そうだと思える講座を、自分で選択して受講できる! こんなに素晴らしいシステムもあったもんだと。ただ必須履修科目とかいう縛りがあったので、時間の都合で何でも自由にという訳にはいかなかったけれど、頭の体操にはなったよなぁ。「ヨーロッパ思想の源流」とかいう講座も取ったなぁ。

 フランス生まれのメルロ・ポンティ、去年が彼の生誕100年だったんだな。彼は、もっと評価されて良いように感じるが、他の名だたる哲学者の中にあって、その扱いは小さいように見える。目の付け所は良かったと思うが「眼」に拘りすぎの感じがしないでもない(当時としては、それは先進的なことっだったのかな)。

 脳を解明する研究もどんどん進んで、脳機能を評価する機器もどんどん進化している。知覚と言う現象を、局所的(あるいは逆に全般的かも知れない)な脳の活動として評価できる時代になってる気がするが。

 

― by まーちん @ 02:05 am commentComment [0] pingTrackBack [0]

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