警察庁の発表 (PDFファイル)によると2008年の自殺者数は3万2249人で、1998年以来11年連続で年間自殺者数が3万人を超えたとのこと。単純に計算しても、毎日 90人前後の方々が自ら命を絶つという選択をしていることになる。
世界での位置 (自殺率の国際比較)を見てみると、ロシアを含めた主要先進国(G8)の中では、ロシアに次いで第2位であり、旧社会主義国なども含めた国々でみると世界第8位だ。アフリカの国々ではデータがないことが多く、正確に全世界からの統計データではない点は留意すべきである。が、それでも日本より上位の国々は、リトアニア、ベラルーシ、ロシア、スロベニア、カザフスタン、ラトビア、ハンガリーと、いわゆる、体制が不安定である(であった)旧社会主義国である。これに次ぐ第8位というのは、やはり刮目すべき点ではあるが、これには日本の風土なり仏教や禅に絡んだ歴史的背景も無視できないだろうから、一概に、先進国で自殺者が一番多いのは社会全体が病んでいるからだ、といった考察の解釈には慎重でなければなない。これらのことに関する考察は、上記リンクや、同じサイトのメンタルヘルスの国際比較 によく纏められている。
若かりし学生の頃は、「自殺は絶対に許せない。」し、「自殺なんて弱者の手段だ。」と思っていた。理由は、単純に、周りに迷惑をかけるし、周りを悲しませるからだ。小さい頃から、自殺は案外身近なものだった。小学校に入る前だったか、ラジコンのヘリコプタや沢山のプラモデルや大小のモーターを見せてくれて、自分の理科系探求心を十二分に刺激させてくれた、隣家の眼鏡をかけたおにいちゃんは自殺したし、小学校に入って、ずっと悪ガキ仲間だった友人のお父さんも自殺したし、近くに引っ越してきた近所の人も自殺した。あの小さなコミュニティで、随分と人は自殺するもんだとは子供心に感じていた。こういうのが影響したのかは分からないけれど、とにかく「自殺は嫌い」だった。なので、自殺が絡む文学作品や映画は決して評価しなかった(認めなかった)し、そもそもそういう情報が予め分かっていれば、最初から読みもしなかった(この影響で、今でも読んでいない文学作品が山ほどある)。
大学生の頃、近くのTSUTAYAで、「今を生きる」をいう映画を借りた。原題は ”Dead Poets Society(死せる詩人の会)” だ。1989年のアメリカ映画。この映画でも、途中で自殺するシーンが出てきて、ひとりで見ていてがっかりした覚えがある。なんだよ、自殺かよっ、て。そのせいか、内容は殆ど覚えていない。でも、その映画に出てくる ”Seize the Day(今を生きろ)” という台詞だけは好きだった。
働き出して、多くのご臨終に立ち会ってきた。担当の患者さんだけでなく、時には、別の病院で宿直していて、あまり面識のない患者さんの死を看取ったことも多々あった。だが、どこで死を看取ろうと、患者さんに接する態度は変わらない。いつも「お疲れ様でした。」と心の中で患者さんに話しかけて送り出していた。病院で迎える死だけではない。時には、検死依頼というのが警察署から来て、死亡状況を確認して、死体検案書を作成したこともそれなりにあった。色々な死に方があった。病死だけでなく転落死や火事などによる焼死。そんな中で、自殺という死に方にも身近に接してきた。首吊り、車内でのガスによる自殺、農薬による自殺。首吊り自殺だけでも、何度か現場に行って来た。警察の方々がせわしく現場写真を撮ったりインタビューをする中、周りで悲嘆にくれるご家族や、動揺を隠せないご家族、疲れ切ったご家族。そんな中で、ひとりひっそりと佇む自殺者。身内が全くいない方もいた。こういうのを体験していく内に、自分の中での、自殺に対する見方が変わっていったように思える。
今は、どうだろう。「自殺は良くない。」と簡単に言えない自分がいる。そもそも自殺を特別な死とみなすというのが正しいのかどうか。この辺りは、この場で語り尽くせるものでもないし、どれが正しいという類のものでもないだろう。だからといって、自分は、自殺する気は更々ないのであるが。
随分と前置きが長くなった。さて、本題の「今を生きる」に入ろう。この「今を生きる」という言葉、"Seize the Day" の邦訳であることは先ほど述べた。「その日を掴め」というのが直訳になる。英語では "Seize the Day" だけれども、これにもオリジナルがあって、それはラテン語だ。ラテン語だと "Carpe diem"。Wikipedia によれば、carpeは、英語だとpickとかpluckに相当し「(果物や花などを)掴み取る」の意。このWikipediaにある解説では、「人生は短く、時間は矢のように過ぎていくんだし、明日死ぬかも知れない。だから、食べて飲んで、今の時間を大いに楽しもう」ということらしい。では、Carpe diemの出典はというと、紀元前、古代ローマ時代の詩人ホラティウスの叙情詩だ。ラテン語はさっぱりなので、日本語訳ないかなぁと探したらありました。ラテン語のメーリングリストを主宰しておられる山下太郎氏 のサイトに試訳があったので転載しておきます。素晴らしい訳ありがとうございます。
神々がどんな死を僕や君にお与えになるのか、レウコノエ、そんなことを尋ねてはいけない。 それを知ることは、神の道に背くことだから。 君はまた、バビュロンの数占いにも手を出してはいけない。 死がどのようなものであれ、それを進んで受け入れる方がどんなにかいいだろう。 仮にユピテル様が、これから僕らに何度も冬を迎えさせてくれるにせよ、 或いは逆に、立ちはだかる岩によってテュッレニア海を疲弊させている今年の冬が最後の冬になるにせよ。 だから君には賢明であってほしい。酒を漉(こ)し、短い人生の中で遠大な希望を抱くことは慎もう。 なぜなら、僕らがこんなおしゃべりをしている間にも、意地悪な「時」は足早に逃げていってしまうのだから。今日一日の花を摘みとることだ。 明日が来るなんて、ちっともあてにはできないのだから。
引用元: ラテン語ファンサイト - カルペ・ディエムのソース-ラテン語Wiki
未来のことはおろか明日のことでさえ何が起きるか分からない。全く持ってその通り。だからこそ、今この刹那せつなを(楽しみ)生きるのが良い。いや、その通り、だとは思うけれど、これって実践するのはなかなか大変だ。
ベトナム生まれの著名な僧侶であり詩人でもあるティク・ナット・ハン の「The Miracle Of Mindfulness G (マインドフルネスの奇跡)」という本に、皿の洗い方やお茶の飲み方が書かれている。大雑把に試訳してみる。
皿洗いをしているときは、皿洗いだけに心を留めるべきです。つまり、洗っている最中は完全に「私が洗っている」と言う事実に気付いているべきです。これは一見するとばかげたことのように思えるかもしれません。・・・でも、正にこれがポイントなのです。自分が台所に立って、食器を洗っているという驚くべき事実。
・・・お皿を洗っている最中に、後で淹れるお茶のことばかり考えて、皿洗いを煩わしく感じているとしたら、それは「皿を洗うために皿洗いをしている」ということにはなりません。実のところ、その間は本当は「生きてはいない」のです。そういう状態では命の奇跡を実感することは出来ません。そういう状態ではお茶ですら飲むことも出来ないでしょう。なぜなら、お茶を飲んでる間は、今度は、また別のことに心を捕らわれているでしょうから、自分が手に持った一杯のお茶にすら気付かないのです・・・
引用元: ティク・ナット・ハン ― The Miracle Of Mindfulness
皿洗いが苦手な自分には浸みる言葉だ。でも訳が下手だし、このリンク元の文章自体が、この本の要約みたいなので、ちょっと堅い。おそらく同じ出典なんだろうけど、以前紹介した精神科医のワイス博士の「Only Love Is Real(邦訳: ソウルメイト)」にもっと分かりやすいのがあるので、そのまま抜粋しておく。
・・・お茶を楽しむためには、人は完全に、今という時に目覚めていなければならない。今という瞬間を意識している時にのみ、手は茶わんの快い温かさを感じることが出来る。今という瞬間のみに、香りを楽しみ、甘さを味わい、繊細さを感じ取ることが出来る。過去のことを思い煩っていたり、将来のことを心配していたりすると、一杯のお茶を楽しむという体験を失してしまうだろう。茶わんを見おろすと、もうお茶はなくなっているのだ。
人生もまったくこれと同じである。今という時に完全に心を向けていないならば、まわりを見まわしてみると、もうそれはどこかへ行ってしまっているのだ。人生の感触、香り、繊細さ、美などをすべて見過ごしてしまうだろう。
過去はすでに終っている。そこから学ぶことを学び、手放せばいいのだ。未来はまだここにない。未来に対する計画を立てるのはよい。でもそのことを心配して時間を無駄にしてはいけない。心配は必要ないことなのだ。すでに起こってしまったことを気に病むのをやめ、起こらないかもしれないことを心配するのをやめた時、あなたは今という瞬間にいることができるのだ。その時あなたは人生の喜びを十分に体験し始めるだろう。
引用元: ソウルメイト 魂の伴侶ー山川紘矢・亜希子訳
うむ、やっぱりプロの訳者は違うな。この文章を読んで、イエスの言葉を思い出した方もいるだろう。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことを思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるからである。
・・・あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことを思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなた方に言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
・・・だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
マタイによる福音書6章25-34節より一部抜粋
この最後の2行は特に好きな言葉だ。何ともほっとさせてくれる言葉ではないか。
「今」という時を実感するのは難しいことかもしれないし、すごく簡単なことかもしれない。この歳になっても活字を読むのは苦手なんだけれど、小学生の頃、自分が活字のある本を全く読まないもんだから(写真の本ばかり見ていた)、図書館の先生が心配してローラ・インガルス・ワイルダーの「大きな森の小さな家」をすすめてくれた。この本は、自分の思想にも影響を与えた非常に大きな出会いであった。その中でのことだったか、あるいは同小さな家シリーズの「大草原の小さな家」(これはドラマのDVD版も出たんだっけ?)でのエピソードだったか、忘れてしまったけれど、主人公のまだ幼いローラが、お父さんのバイオリンの奏でる音や暖炉のぱちぱち鳴る音に耳を傾けながら、「これが『今』なのね。」と幸せを実感する場面があって、その描写に何とも言えない説得力を感じたのを思い出す。
一杯の熱いお茶をすすりながら、湯吞み越しにその熱さを感じ、湯気越しにその香りを感じ、今このひとときを実感する、そんな余裕が欲しいもんだ。
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