宿泊先のホテルでなにげにチャンネルを回していたら、「蜘蛛女W」をやっていた。ゲイリー・オールドマン主演の1993の英米映画だ。「あぁ、この女性の笑い顔は見覚えがある、昔CMで宣伝していたなぁ。」としばらく見入っていたが、外出の時間になり結末を知ることは出来なかった。見る必要がある映画ならば、そのうちまた見る機会もあるだろう。
で、気になったのは、ゲイリー・オールドマン氏と井上順 氏が似ているなぁ、ということ。
いや、それだけだけど。
Thu 29 Apr ’10
宿泊先のホテルでなにげにチャンネルを回していたら、「蜘蛛女W」をやっていた。ゲイリー・オールドマン主演の1993の英米映画だ。「あぁ、この女性の笑い顔は見覚えがある、昔CMで宣伝していたなぁ。」としばらく見入っていたが、外出の時間になり結末を知ることは出来なかった。見る必要がある映画ならば、そのうちまた見る機会もあるだろう。
で、気になったのは、ゲイリー・オールドマン氏と井上順 氏が似ているなぁ、ということ。
いや、それだけだけど。
― by まーちん @ 07:27 pm
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Mon 08 Feb ’10
「愛」という言葉を語るとき、それが包含(ほうがん)するものは実に多岐に渡る傾向にあるから、個人的には用いるのが難しい言葉のひとつだ。自分としては、「無償の愛」とされる「アガペー」の意で捉えることが多いけれど、それが一般的であるとは思わない。なので、「愛」という言葉を用いる代わりに「慈しみ(いつくしみ)」という表現を使うのが好きだ。
さて、仏教の中で最古の聖典と称される『スッタニパータW』をトイレの中で読んでいた。宗教学者の中村 元(なかむら はじめ)氏訳による『ブッダのことば』(岩波文庫)であるが、最初の章である「蛇の章」に『八、慈しみ』という節がある。この節は10の詩句からなるが、目に留まった初めの8句を紹介しておく。
第一 蛇の章 八、慈しみ
- 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力があり、直(なお)く、正しく、ことばやさしく、柔和(にゅうわ)で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
- 足ることを知り、質素に暮し、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪(むさぼ)ることがない。
- 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。
- いかなる生物生類(いきものしょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛(きょうごう)なものでも悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、または粗大なものでも、
- 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切も生きとし生けるものは、幸せであれ。
- 何びとも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
- あたかも、母が己(おの)が独り子を身命を賭(と)して護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。
- また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に下にまた横に、障害なく敵意なき(慈しみを行うべし)。
世の中の人々が皆これを実践できるなら、この世はさぞかしまばゆいものであろうけれど、自分も含めてこのような境地に達するのははなはだ困難といわざるを得ない。それでも、それを目指して生きていくのは良いことだと信じる。
この詩句を読んで浮かんだ思いは、「大人になるとは己(おのれ)を知ること」だった。己を知って初めて、「あぁ、自分も大人になったなぁ」と実感できる気がする。そういう意味では、自分はまだまだ子供なのかもしれない。己を知ることができれば、自ずと「足るを知る」ことができるのかなぁと。
中村 元氏によるこの訳本が素晴らしいのは、比較的平易に訳された詩句だけでなく、膨大な注釈が付いていることだ。実に本書の半分は注釈で占められている。この節の解説では、「知足=足るを知る」という老子の言葉も引き合いに出している。
勝人者力 (人に勝つ者は力有り)
自勝者強 (自ら勝つ者は強)知足者富 (足るを知る者は富む)
強行者志有(強を行う者は志有り)
老子とブッダは、共に紀元前5世紀頃の人で、西方に消えた老子がインドで釈迦となり、仏教を興したという説(いわゆる『老子化胡説』ろうしかこせつ(けこせつ)、ほぼ創作であろう)もあるぐらいで、確かに思想的に似通った点もあるようだ。老子のは、一見逆説的な言い回しになっているので解釈がやや難しい気がする。
個人的には、「足るを知る」で想い起こされるのは、使徒パウロの次の言葉。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
ローマの獄中から、フィリピの教会へ宛てた感謝の手紙。ここでは貧しくても我慢せよと言っているのではない。あらゆる境遇にあっても、足りるを知るということが大切ですよ、と述べている。自分の置かれた境遇をよく理解し、自分を知り、自分を慈しむ、そうすることで他人を慈しむことができるのかもしれない。
― by まーちん @ 12:59 pm
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Wed 03 Feb ’10
随分とふるいネタかもしれないけれど、任天堂の宮本茂氏と「おかあさんといっしょW」で有名な佐藤弘道氏って似てるよなぁって数年前から思っている。きっと、そう思った人が全国に200人はいるだろう。
→「宮本茂」でGoogle画像検索
vs. 「佐藤弘道」で画像検索
ちなみに、宮本茂氏は2006年にフランスの芸術文化勲章「シュバリエ章」を受賞しており、これはゲーム産業界としては初めての快挙であった。
フランスつながりでもうひとつ。日産のCEOで有名なカルロス・ゴーン
氏と、「星の王子様」で知られるサン・テグジュペリ
も似てると思ってる。
→「カルロス・ゴーン」でGoogle画像検索
vs. 「サン・テグジュペリ」で画像検索
サン・テグジュペリの遺稿(未完)である『城砦(じょうさい)』は是非とも読んでみたい本であるが、まだその時期ではないようだ。
― by まーちん @ 12:38 am
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Sat 30 Jan ’10
連載中の「夢十夜 第四夜
」では、5世紀のコプト教会が舞台となっている。その中の登場人物に修道士トマスがいるが、彼の発言の中には矛盾があることに気付いていた。でも、夢なんだし仕方ないなぁとそのまま記述したわけであるが。
「公会議では、主イエス・キリストの本性が最大の議題でしたよね。キリストは神性と人性という二つの本性を、唯一の位格(いかく、ペルソナ)の中に併せ持つという教義が採択されたと聞きます・・・」
「私たちの信仰告白は、父と子と聖霊という3つの位格が一体であるという三位一体を中心の教義としていますよね・・・」
何かおかしいと思わないだろうか。共に位格(ペルソナ)という聞きなれない単語が出てきている。英語のパーソナリティpersonalityの語源となった言葉だ。ペルソナといえば役者が舞台で被る役割の仮面を連想するだろうが、ここでは違う意味と思われる。いずれにせよ、人間のペルソナであれば「人格」となるところであるが、神に関するペルソナだから「位格」とした、ぐらいの解釈で良いだろう。
で、自分が「あれっ、矛盾してないかい?」と思ったのは、三位一体では、神・イエス・聖霊という3つの位格があるとしているのに、両性説では、神とイエスとはただひとつの位格にあるとしている点だ。共に、現代のいわゆる正統派と呼ばれるカトリック教会、正教会、プロテスタント教会の中心教義だと思うのだけれど。。
三位一体のイメージだと、[]を位格とすると
まだ自分の中で整理しきれていない部分があるので、以下に主要と思われる出来事を時系列に書いておく。
ニコメディア(ミラノではない)でローマ皇帝コンスタンティヌス1世が信教の自由(キリスト教に限らない)を保障する勅令を出した。キリスト教優遇政策の始まりとされる。
キリストの神性の解釈をめぐる問題において、アタナシオス派がアリオス派に勝利して、(原)ニカイア信条が採択された。アリオス派は父と子は異質である(=イエス・キリストは神が創造した)と唯一神教を主張したが、三位一体論のアタナシウス派は、父と子は同質とした。敗北したアリオス派は異端とされた。
テオドシオス大帝(1世)が、コンスタンティノポリス(現イスタンブール)で公会議を開催して、ニカイア信条を修正したニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択。アリウス派やホモイウジオス主義者(ニカイア信条に入っていた「同質=ホモウジオス」という言葉に反対し、「相似=ホモイウジオス」という言葉を支持した人々)の排斥を決定した。
アレクサンドリア総主教キュリロスとコンスタンティノポリス大主教ネストリウスの論争に決着を付けるために開催。ネストリウス派は、イエス・キリストの人間性と神性とを完全に独立した二つの自立存在を想定したが、キュリロスは、キリストは唯一の自立存在であるとした。会議は、二転三転し混乱を来たしたが、最終的には、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を再確認し、聖母マリアは「神の母(テオトコス)」であるとされた。そしてネストリウス派の、マリアは「キリストの母(クリストトコス)」であるという主張は退けられ、ネストリウス派は異端とされた。
イエス・キリストには神性のみが存在するという「単性説」を排斥し、キリストは神性と人性を持ち、その二つの本性を混合することも分かれることもなく唯一の位格、唯一の自立存在の中に有するという「両性説」を採択した。そして再度、ネストリウス派の排斥も行われた。この会議でカルケドン信条
が定められた。
何かご指摘などあれば助かります。
― by まーちん @ 03:33 am
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Thu 21 Jan ’10
よく知られた諺(ことわざ)「井の中の蛙(かわず)大海を知らず
」とは「胡蝶の夢」で有名な荘子W(そうし)の著書『荘子(そうじ)』秋水篇の中のエピソードによる。
北海若(ほっかいじゃく)曰く、井蛙(せいあ)には以(も)て海を語るべからざるは、虚に拘(かかわ)ればなり。夏虫(かちゅう)には以て冰(こおり)を語るべからざるは、時に篤(あつ)ければなり。曲士(きょくし)には以て道を語るべからざるは、教えに束(つか)らるればなり。
意訳: 北海の神である若(じゃく)が言った。
「井戸の中の蛙には、大海は語れない。自分の居場所にこだわっているから。また、夏の虫に氷は語れない。夏の季節しか考えないから。大局を見ないものは真理を語れない。卑俗な教理に捉われているから。」
乱暴に言えば「悠久の自然や時間に比べれば、ちっぽけな人間の知識なんて当てにならない」ってとこだろう。ところで、秋水篇は7章から成っているようで、この諺「井の中の蛙大海を知らず」の出典としては、この第一章ではなくて第4章の方
だという説もある。確かに後者の方がそれっぽい。どちらにせよ、秋水篇の中であることには変わりない。
で、ここからが本題だけど、別件でたまたま「井の中の蛙大海を知らず。されど空の高さと水の深さを知る。」という言い回しを見てびっくり。えっ、そんなのあったっけなぁ。調べてみると、後半は色々バリエーションがあるようだ。「されど空の深さを知る」「されど天の広さを知る」「されど地の深さを知る」「されど空の青さを知る」などなど。どうも日本で後世の人が後付けしたらしい。
じゃ、誰がこんな洒落たことを最初にしたのだろう? 適当に調べて見たが、どうもはっきりしない。使われているものとしては、小林よしのり氏の漫画『ゴーマニズム宣言』4巻第85章に「井の中の蛙大海を知らず。されど空の深さを知る。」とあるらしいし、2004年のNHK大河ドラマ「新選組!」(三谷幸喜 脚本)での近藤勇に台詞に「井の中の蛙大海を知らず。されど空の高さを知る。」というのがあるらしい。最も古そうなものとしては、陶芸家河井寛次郎W(かわいかんじろう 1890-1966)氏が、自分の作品を批判された際に「井の中の蛙大海を知らず。されど天を知る」と言ったというエピソードがある
ようだ。
個人的には、江戸時代あたりに川柳の感覚でどこかの風流人がとってつけたんじゃないかなぁと妄想するけど、こういうことを詮索するようでは荘子に怒られるかな。
余談だけど、「井の中の蛙 千代大海を知らず」というのもあるらしい。うむ、引退した力士だから、蛙が知らないのも無理はないか。。
― by まーちん @ 05:23 pm
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