
Wed 20 Jan ’10
半分欠けたエッフェル塔

― by まーちん @ 06:19 pm
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Wed 20 Jan ’10
金ピカのオペラ・ガルニエ










さて、肝心の劇場内部は、リハーサルのため見学不可だった。これでも見学料は同じという・・・。まぁいつかバレエを観賞する機会もあるだろうからその時までのお楽しみということだな。
― by まーちん @ 01:50 am
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Tue 19 Jan ’10
夢十夜 ~ 第4夜
第四夜
最後に夢を見てから、次の夢を見るのはいつだろうかと心の片隅で焦がれていた。時は静かに移ろふ。そして時はそっと包み込む。こんな夢をみた。
私は風になって砂漠を渡っていた。暫くの間、鳥たちをナイルの南へと運んでいたが、眼下に古めかしい修道院を見つけた。人の話し声を耳にしたので、私は鳥たちにさよならを告げ、そこに降り立つことにした。
ぎらぎらと照りつける太陽が石造りの修道院をゆらゆらと見下ろす。私は、気付かれないようにそっと中に忍び込んだ。二人の修道士が、古びた長椅子に腰掛けて議論を交わしているのを見た。
暗くひんやりとした空気に身をなじませつつ、私はコプト語を操る二人の修道士の声に耳をそばだてた。二人の声だけが堂内に響き渡る。
「私が常々疑問に感じているのは、主の教えはひとつであるはずなのに、なぜこうも教義の解釈に違いが出てくるのかということです。先の公会議で、私たちの教派はローマの主流派教会と完全に決別したそうですね。」
「トマス、それはなかなか難しい問いかけだと思うけれど、しっかりと向き合わないといけない問題のような気がする。私もその手のことは幾度となく自問してきたんだ。そのカルケドンで行われた公会議には、われわれの司教様も出席されたのは知ってると思う。司教様は『あぁ、この状況を主は予見しておられたのであろうか?』と深いため息をついておられた。」
「公会議では、主イエス・キリストの本性が最大の議題でしたよね。キリストは神性と人性という二つの本性を、唯一の位格(いかく、ペルソナ)の中に併せ持つという教義が採択されたと聞きます。私たちの教義は、これとそう変わらないと思うのですが、一体何が袂(たもと)を分かつ原因だったのでしょう。私は、神性と人性という二つの完全な本性が不可分に唯一のものとして存在するというふうに理解しています。シメオンはどうお考えですか。」
「正直なところ、私には分からない。少なくともわれわれの教義とカルケドンで採択された信条とに大きな差異はないと思うけどね。単に同じものを違う切り口で見ているだけなのではないかと。何となく、先の公会議では結論を急ぎすぎた感があるし、もっと言えば先に結論ありきで純粋に宗教的な話し合いから逸れてしまったのではないかと感じている。」
「それは政治的な何かですか? 」
「それは何とも言えないけれど、結果として、我々は主流派から離反したような形になってしまった。」
「彼ら主流派からすれば、私たちは異端ということになるのでしょうか?」
「彼らの定義に従えばそういうことになるかもしれない。ただ、トマスよ、それは彼らの判断であって相対的なものだ。何が正統で何が異端であるか、主がそのような区別をされるだろうか。確かに主の教えはひとつであった。だが、主の言葉を世界に広めたのは、イエス・キリストを信じ、彼の教えを口伝(くでん)した人々だ。かつて、この地に聖マルコが主の教えを広めにやってきた。そして、主の教えは、聖マルコの解釈をもって彼の口から語られた。ここで大事なのは、主はわれわれ人間に自由意志というものを与えてくださったということだ。主の御言葉が、さまざまな形をもって語られるであろうことは、主は十分に予見され、そしてそれを良しとされたのではないだろうか。」
「つまり、色々な教義が入り乱れる状況を、主は予見されていたと。」
「そういうことになるかもしれないね。そして、どの教義が正統であるかなんてことは、われわれが判断すべきではないのではないのだろう。主は、われわれが主に心を向けて、主のように完全なものであろうとする限りにおいて、どのような教義でも受け容れてくださるに違いない。」
「その考えでいけば」とトマスは、身を乗り出して続けた。
「私たちの信仰告白は、父と子と聖霊という3つの位格が一体であるという三位一体を中心の教義としていますよね。歴史的には、そうでない教義は異端として退けてきました。もしかしたら、それは間違ったことなのでしょうか。」
「三位一体という教義が信仰を強くするのであれば、それで良いだろうし、また、三位一体という教義がなくても信仰を実践できるのであれば、それはそれで良いのかもしれないね。要は、われわれの自由意志次第だ。われわれが異端とするところの教義を主は異端とされるだろうか。私にはそうは思えない。主はどのような形態をも受け容れてくださるだろう。」
「司教様が耳にしたら、きっと驚かれるでしょうね。」
「確かにね。最近思うんだが、私にとって大切な認識というのは、かつて主イエス・キリストが確かに生きた時代があって、主の御言葉を語ったという事実なんだ。私にとってはそれで十分だ。かつて、主イエスも同じ月を見て、同じ太陽を見ていたというその事実だけで何となくほっとした気持ちにさせてくれる。」
「では磔刑や復活は?」
「私はそういう出来事が実際にあったと信じるけれど、仮にそんな事実はなかったと主張する人たちが現れたとしてもあまり驚かないかもしれない。」
「私はこれまで教義というものに疑問を抱かず、当たり前のこと、正しいこととして受け容れて来たので、シメオンの考えを聞いて少しばかり動揺しています。」
「まぁそうだろうね。でも、これは現時点での認識だし、これから先、変わるかもしれない。ただ、主と向き合って自分が正しいと思うことを実践すれば主は受け容れてくださるだろう。このところ、私は、判断に迷ったときは、主イエスならどのように判断されるだろうか、ということを考えて行動するようにしている。こうやって行動すると何だか頼もしい感じがする。ちょっと大げさに言えば、この瞬間、私は、神と一対一で対話している気分になる。」
「『神との対話』ですか。それは興味深いですね。」
私は、その場を離れることにした。再び、じりじりと照りつける太陽に向かって私は上昇を始めた。下にゆらめく修道院は徐々にその姿を小さくしていったが、彼らの話し声は暫く私の耳に届いていた。
「ほら、今、風がわれわれの頬を吹き抜けたろう。この風のように、心地よいそよ風が誰にでも吹くように、主の息吹は、どんな者にも分け隔てなく吹き込んでくるし、その息吹によって枯れることはない。そして主の御言葉が永遠に立つというのならば、それによって生かされるわれわれの魂もまた永遠なのかもしれない。」
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― by まーちん @ 04:00 pm
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